下川関の趣味ブログ

趣味の話と社会人向けライフハック

【映画】この寂しさは何で埋めたらいいのか

 エヴァンゲリオン30周年記念で去年の10月から始まった月一エヴァ。エヴァンゲリオンの映画作品を月一回、一週間程度リバイバル上映するというイベントでした。リバイバル上映自体は過去に何度かありましたが、今回の催しではこれまでごく限られた場所でしか再上映が行われなかった旧劇場版の「Air/まごころを、君に」が全国的に放映されるということで、ファンとしては心躍るものでした。

 実際に劇場に足を運んでみると、この盛り上がりを実感します。土日であればほぼ満席で予約は必須という状況でした。先日シン・エヴァンゲリオンの興行収入が3日で1.1億を超えたというニュースもあったりして、まだまだエヴァンゲリオンが人気のコンテンツだということを示しています。

 ここから自分の話になるのですが、私はトップバッターのシト新生~新劇場版の破と、そして先日年休を取得してシン・エヴァンゲリオンを見に行きました。土日に予約して見に行くのでも良かったのですが、年休の繰り越しが嫌だったので。ちなみにQだけ見ていないのですが、これは単純に忙しくて見に行けなかっただけで、他意はない……ない。「まあQなら見れなくてもいいか」と1mmも思わなかったかと言われれば、まあ素直に首を縦には振れないんですが。

 ということで今回は、月一エヴァをQ以外完走した感想を書いていくのですが、

smk25.com

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 過去にこういう形で映画の感想を書いたことがあります。その時はタイトルひとつひとつに対してここが良かったということを書きましたが、今回はエヴァンゲリオンを一つのコンテンツとして、色々と書いてみたいと思います。

 

■一番面白かったエヴァ映画

 まず今回のリバイバル上映で一番面白かった作品はどれかという話。これはもう断トツで新劇場版の破でしたね。数あるアニメ映画の中でも、歴史的なレベルの面白さじゃないですかね? これと「初見の涼宮ハルヒの消失」を比べても、ギリ破の方が勝ちそうな気がします。

 序もそうなんですが、ストーリーが「エヴァパイロットとしてあらゆる困難に立ち向かい乗り越える」という物凄い王道なのが良いですよね。やたらと小難しい単語が出てくるエヴァンゲリオンですが、新劇場版はそこの軸がブレていません。これはQ~シン・エヴァンゲリオンもそうです。そういう分かりやすい話の方が私は好きですね。

 

 序ではパイロットとしての肉体的苦痛、世界中の人の命が自分の手に掛かっているという重責、更に命懸けで戦ったにも関わらずクラスメイトからは罵倒されるという、並べて書くと散々な目に遭ったシンジ。

 それを綾波レイの為に乗り越えたのが序のラストで、破の序盤はその報酬がシンジに返って来るところから始まるんですよね。アメとムチ理論で、序でほぼ全編使って振り上げたムチに対するアメということで、破の前半はファンとしては激甘なシーンなわけです。やっぱり一番良いのはレイがシンジとゲンドウの為に食事会を企画するところですかね。あの後の車で引き返すゲンドウの顔は本当に来るものがあります。

 また破からアスカが加わってその激甘展開をゲロ甘展開にしていくわけですが、これを後の特大ムチに使うっていうのが、本当に恐ろしい映画ですね。「三号機」っていう名前が出た時点でアニメファン的には胃が痛くなってくるのですが、それに乗るのがアスカと分かって、アニメスタッフは何考えてるんだって言いたくなります(良い意味で)。

 起動実験に失敗して使徒に侵食される三号機。シンジは人が乗っていることを知って戦うことを拒否します。ここでアスカと共に現場に出張して不在のミサトの代わりに指揮を執るゲンドウと問答するのですが、ここは本当に印象的なシーンですね。シンジはそれまでどんな苦痛を受けても使徒と戦い続ける勇気を持っているのですが、その原動力は「誰かの為」というものであり、それ故に人を傷つけることになる戦いについては死んでもいいと言えるぐらいの固い意志を見せました。

 そしてこの死んでもいいという旨の発言は、ゲンドウの「やらなければお前が死ぬぞ」という問いかけに対するアンサーなんですよね。ここがひとつのポイントで、もしここでゲンドウが「やらなければもっと多くの人が死ぬぞ」と言えば、シンジももしかしたら思い直していて戦っていたかもしれません。これまで誰かの為に戦ってきたシンジからすると、それは望むところではないでしょうからね。

 だからその発言が出てこなかったという事自体が、シンジとゲンドウの考え方に根本的な違いがあるということのように思えます。ゲンドウはシンジが気にしている誰か=不特定多数の命という概念を見落としているんでしょうね。ゲンドウにとっては不特定多数の命は興味の対象ではなく、ユイやシンジといった身近な人間のことしか興味がなかった、ある意味シンジへの愛情(というより依存?)が伺えるシーンでした。

 話を戻して、三号機はダミープラグに書き換えられた初号機によって破壊されます。ここで流れる「今日の日はさようなら」は何回聴いても最悪な気分になりますね。綺麗な歌にのせて血と咀嚼音が入り混じって、最後は噛み砕かれた三号機のエントリープラグからLCLとアスカの血が噴き出して虹を描くんですよ。シンジに与えるムチとしてはこれ以上ない仕打ち。なに考えてたらこんな最低な映像が作れるんですかね。ストーリー、映像、音楽共に最高に最低な芸術作品でした。引き続きよろしくお願いします。

 こうして再びエヴァと決別するシンジ。誰かの為に戦うというやりがいを与えられ、そのやりがいを真っ向から否定する仕打ちだったわけですから、そりゃそうだって感じです。その後紆余曲折を経て「綾波を返せ」に繋がり、最終的にニアサードインパクトが起こってしまいます。

 この「綾波を返せ」という台詞が印象に残っている人は多いのではないでしょうか。アニメ版だと第16の使徒のアルミサエルとの戦闘でレイは自爆するので、シンジは彼女を助けることが出来なかったわけですが、新劇場版では助けられました。ディティールこそ違えど、それまでアスカが三号機に乗るという部分以外は概ねアニメ版と同じ道のりを辿っていた新劇場版が当初の触れ込みのとおりリビルド、つまり違う道筋に向かおうとしていることを強烈に意識づけた台詞だったと思います。まあレイを助けようとした結果二アサーが起きたんですけどね。

 

 随分長く書いてしまいましたが、新劇場版を通じて発揮された映像技術や音楽に加えて、シンジの覚醒というシンプルに熱い上にアニメ版からのファンの期待を煽る展開が重なった破が一番面白かったと思います。

 あとQ以降は当然といえば当然なのですが、学校へ行ったりみんなで弁当食べたりといった日常シーンがあまりないんですよね。シンエヴァの序盤は仮称レイを中心にそういったシーンがありましたが、Qの前振りの後だったので初見だと正直引き攣った笑みしか出ませんでした。今回見た時はちゃんと温かい気持ちで見られましたよ。

 あの日常パートもエヴァンゲリオンという作品にとって大事な要素だと思っています。序でも日常パートはありますが尺が短い、というよりまだ登場人物との関係が構築されきってない段階なので、限られた交流の中での関わり合いしか描写されません。序で蒔いた種が破のタイミングで芽吹いて、あの激甘な日常シーンに繋がるわけです。書きながら改めて思い返すと、あの海洋生物研究所のパートって凄く良かったなと思います。あらゆる要素が噛み合いに噛み合った破のお話でした。

 

■なぜQで評価を落としたのか

 ラストで「ここから一体どうなるんだ!?」という展開と、期待感が高まる次回予告で締めた破から3年が経って公開されたQでしたが、ここでがっつり評価を落としてしまった感があります。「わけが分からないよ」というシンジの言葉通り、14年後であるとか、ヴィレであるとか、二アサーであるとか、いきなりそんなことを言われても何が何だか理解出来ません。それで説明してと言っても説明してくれない、「何もしないで」と冷たく突き放されて小言を言われ続けるという有様。さすがにクソゲーが過ぎる。

 それで易きに流れたというか、ゲンドウのシナリオ通りにヴィレを脱出してカヲル君に出会い、「槍を抜けば全部丸く収まる」という言質をとって十三号機に乗って最終的にカヲル君は爆発するわけです。そして、それで終わるのがこのQという映画。当時からいけ好かないと思っていましたが、改めて書いてみると本当に終わってんなって仕打ちです。

 シンエヴァになってシンジを突き放す人々の心情等が明かされ、一応大方の説明はされるのでそれを以てQという作品を肯定する人はいるでしょう。しかし個人的にはそうじゃないだろと思っています。

誰のおしっこかも分からない再生水と同じ、清めればいいと思ってる

シン・エヴァンゲリオン劇場版より引用

 後になって説明されるのなんて分かりきっているわけですし、それを明かさなければQはマジ何なんだって話です。要するにシンエヴァまで見てQの説明不足な描写も概ね納得はしたけど、それはそれとして初めて見た時のQは「何だこれ」でした。何を評価基準とするかですけどね。

 

 じゃあどうすればQで評価を落とさずに済んだのか、これについて考えてみたのですが、結論としては「不可避の事象」だったと思います。

 シンエヴァの結末を踏まえるとQという物語は必要でした。まずシンジがゲンドウと向き合えるだけの成長を遂げる為、そしてストーリーのカタルシスの為にシンジを苛める展開は必須だったでしょう。そこは序と破から続く様式美のようなものです。では序破とQで何が違ったかといえば、Qだけその作品中でカタルシスがないんですよね。序では最後のレイの笑顔がありましたし、破もシンジの覚醒とレイを助け出せたという事実がありました。Qでは槍を抜くシーンがそれに該当するように匂わせておいて、カヲル君を爆発させましたからね。絶え間なく続くシンジ苛めに胸糞悪い気分のまま終わりました。

 これがQが評価を落とした最大の要因だと考えています。であれば処方は単純にカタルシスを与えること、即ちQとシンエヴァの内容を合体すれば良かったと思っています。

 問題はその実現性です。Qは95分でシンエヴァは155分、そのまま足したら合計4時間10分ですよ。調べてみたら意外と4時間超えの作品って結構あるみたいですが、あまりに長すぎると作品の良し悪し以前の問題になってしまいます。なのでこれをどうにか削らなければならないという前提で考えますが、仮に3時間に内容を収めようとした時に何を削るか、これがまた難しい話です。キャラクターに役割を与えたり深掘りしたり、数々の伏線に説明を付けたりする必要があるので。先程散々ボロクソに書いたQも、削れるシーンがあるかと言われればそんなことはないんですよね。

 こう考えるとQとシンエヴァをひとつにまとめるというのは、かなりハードルが高いように思えます。であれば同時公開等の手段が考えられるかと思います。これならQでもやもやした人もすぐに回答が得られて、作品として長い期間評価を下げることはなかったでしょう。

 ただまあ、それもそもそも無理な話です。Qの公開に3年、シンエヴァは9年掛かりました。単純計算して12年分もスタッフを拘束するだけの制作費が破の制作後にあったとはとても思えません。どこかで制作費を回収する必要があったでしょうから「作りきって公開」というのはそもそも選択肢になかったでしょう。最初にQとシンエヴァを合わせた内容を……と書きましたが、削るとか削らないの話以前にリソース的に無理だったんじゃないかと思っています。

 

 つまりQが評価を落とすのは、もうどうしたって避けられないことだったのではないかと個人的には思っています。もし本当にシンエヴァを同時制作していたら、シンエヴァどころかエヴァシリーズは破を以て終了だったかもしれません。だからQで評価を落とすというのはエヴァンゲリオンを完結させるには必要なプロセスだったと思っていますし、批判されると分かっていても完結というゴールの為にQを世に出した責任感と勇気は称賛すべきことだと思います。

 私みたいな趣味の創作とは違いますからね。個人制作だったら幾らでも逃げ道を作れますが、アニメという多くのスタッフが関わり責任が伴う仕事でこれを成し遂げたという事実は、同じ人間として尊敬します。それはそれとしてQは(以下略)。

 

■一番好きな主題歌

 魂のルフランに甘き死よ、来たれ、新劇場版ではBeautiful World、桜流し、One Last Kissと多くの名曲が生まれた劇場版エヴァ。とりわけ甘き死よ、来たれとOne Last Kissは強烈な印象を与えてくれましたが、私はやはりBeautiful Worldが一番好きですね。

 問題はどのバージョンかです。Beautiful Worldには序で使われた原曲と、破で使われたPLANiTb Acoustica Mix、そしてシンエヴァの一番最後に流れたDa Capo Versionの3つがあります。

 私は大抵の場合で「原曲こそ至高」という価値観なのですが、今回ばかりは決められないですね。何だかんだで一番好きなのは原曲でそれは変わらないのですが、破のサードインパクトと共に流れる、終末感に満ちたPLANiTb Acoustica Mixはもうあれ以外考えられないですし、Da Capo Versionに関しては泣きましたからね。この月一エヴァで旧劇のシンジの砂場遊びのシーンであるとか、破のシンジの覚醒シーンであるとか、目頭に来る場面は幾つもありましたが、本当にボロボロ泣いたのはここだけでした。

 改めて思いましたが、まだ結末も決まっていなかったであろう序の段階で作られた曲がシリーズを通して使われて、しかも最後の最後までビタハマりしたというのは、宇多田ヒカルの頭の中はどうなってんだと思いますね。エヴァンゲリオンという作品の本質を捉える感性と、それを抽象化・言語化して歌という形に落とし込むクリエイターとしての才能には脱帽します。この曲がなかったら、少なくとも月一エヴァはここまで盛り上がらなかったでしょう。

 

■シンジが好きになった

 私がエヴァンゲリオンという作品に触れたのは、シンジと同じく思春期の頃でした。最初に見たのは序で、金曜ロードショーか何かだったと思います。かっこいいロボ、可愛いキャラに興味を惹かれて、見事レイがドアップになるシーンがトラウマになりました。絵は綺麗だけど話はよく分からないし怖いしでしばらくは敬遠していましたが、最後のBeautiful Worldは印象に残っていて「見たいけど見たくない」みたいな複雑な心境でした。

 そんな折、実家の引き出しの奥底に眠るアニメ版のDVDを見つけました。実は両親がエヴァが好きで、アニメ版~破までDVDを持っていて私が家にいない時にたまに見返していたそうです。年齢的に見せるのはまだ早いかと思っていたらしく、隠していたところを私が見つけたのがきっかけでした。後で聞いた話ですが私が当時序を見ている時、興味を持ってくれて嬉しい反面、私が「レイが怖い」と言った時はやはり複雑な心境になったそうです。

 そういった経緯でエヴァにのめり込んでいきました。しかし当時はシンジが好きではありませんでした。大前提として「可哀相な子」という方が強かったのですが、じゃあ救われてほしいかと言われれば、旧劇のラストでアスカの首を絞めるものだから彼の望みが最後まで分からず「救えねえ」みたいな気持ちもあったんですよね。

 ただこの度改めて劇場版を見て、シンジが凄く好きなキャラになったんですよね。そりゃこの歳にもなれば感じ方も違うだろうよという話ではありますが、やはり序の追加シーンが凄く良かったと思うんですよね。

 序は全体を通して陰鬱な雰囲気で、シンジを取り巻く環境の劣悪さが丁寧に描かれていました。一番は第6の使徒に初号機が焼かれるシーンですね。アニメ版の時点で緒方恵美さんの名演もあって痛ましいのに、序ではカタパルトが融解して離脱出来ず、「ここから出して」という懇願をゲンドウが突っぱねるという最悪さです。こういった仕打ちを受けて尚ミサトの説得もあり自らの意思で乗ることを決意、戦闘中に一時動けなくなるも、そこでも自ら引鉄に指を掛ける描写は序で追加されました。

 新劇場版のシンジって本当に芯が通っているザ・主人公なんですよね。乗ることも乗らないことも自分の意思で決め、どんな困難にも最後には立ち向かっています。だからこそ周りの大人たちの酷さが際立つのですが。

 乗るなら早くしろから始まり、何のためにここにきたの? とか、爆煙で敵が見えない! とか、大人たちから散々言われて(ミサトばっかじゃねーか)最終的に自尊心を根こそぎ奪われたアニメ版のシンジは、旧劇でミサトが死ぬまで自ら乗るという選択をすることが出来ませんでした。それがリアルだとは思うんですよね。

 なので私は、アニメ版があらゆる肉体的・精神的苦痛の果てに自尊心を奪われ、自らエヴァに乗ることを選べずにゲンドウの掌で踊らされた世界線のシンジで、それに対して最後まで自ら道を選び抜いた世界線のシンジが劇場版だったと、概ねそういった区切りをしています。エンタメとしてどっちが面白いかと言われれば断然後者ですよね。

 そしてこの強いシンジが生まれるには、ミサトの「シンジ君1人が命を懸けて戦っているわけじゃない、みんな一緒よ」とか、「エヴァに乗ってくれた、それだけでも感謝するわ、ありがとう」とか、「みんなの期待に応えて私達を救ったのよ。もっと自信持ちなさい」とか(ミサトばっかじゃねーか)、他のキャラクターの関わり方の変化というのもあったかと思います。

 ミサト以外にもレイはポカポカしだすし、惣流は式波になるし、何より新劇場版ではマリが登場します。じゃあマリがシンジのメンタルにどういう影響を与えたのかというのが見えにくかったのは残念でしたが、要するに新劇場版のシンジは数ある世界線の中で最も人に恵まれたシンジであり、人に恵まれさえすればあのうじうじした中学生がこんなに逞しくなるんだと、そういうことを思いました。やはりエヴァンゲリオンという作品は人との関わり合いがテーマだというお話です。

 

 皆さんはどの作品のシンジが好きですか? 私のマイフェイバリットシンジはやはり破の覚醒シンジですね。次点で序のヤシマ作戦半覚醒シンジです。トウジに殴られる前の俯きシンジと殴られて空を仰ぐ鼻血シンジ、Beautiful Worldのサムネシンジも捨てがたい。

 ちなみにシンエヴァのシンジは好きなんですが、ちょっと精神性が人間を超えていると個人的には思っているんですよね。大人になり過ぎてちょっとついて行けない感はありました。初号機に乗ってゲンドウ、アスカ、カヲル君、レイを助けて行くシーンも「対等な関係での対話」というよりかは「神になったシンジが愚かな人間に説法を説いて救済していく」みたいな。でも好きなんだよなあ。

 

■カヲル君が好きになった

他人の死と思いを受け取れるとは…大人になったな、シンジ

シン・エヴァンゲリオン劇場版

 ミサトが最期に送ったヴィレの槍を受け取ったシンジに対してゲンドウが送った言葉です。この台詞は自分が出来なかったことが出来るという尊敬の念と、息子の成長を喜ぶ父としての側面の両方が入り混じった素晴らしい演技だったと思います。

 

涙で救えるのは自分だけだ。僕がないでもほかの誰も救えない。

だから…もう泣かないよ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版

 一番好きなのはカヲル君との対話シーンです。カヲル君は旧劇の後にシンジの為にループしていたらしく、最後の最後で加持にシンジを幸せにすることで自分が幸せになりたかったと気づかされます。

 ちょっとズレた話をしますが、偽善も善だと私は思っています。カヲル君はそれが自分の為と知らず、シンジの為に生きました。要するに偽善者だったわけですが彼がシンジを思う気持ちに偽りはなく、カヲルが14年後の世界でシンジの孤独に寄り添ったことは紛れもない事実です。この考え方はシンジが旧劇でアスカに散々否定されたものだったかと思います。

 それがこのシンエヴァで受け入れられた気がします。噓から出た実という言葉のように、最初は自己のことしか考えていない偽善であっても、それがいつしかお互いにとって本当に他者を思う心に育つ。子供のシンジがカヲルに手を差し伸べて、それに涙するところは、もうカヲルの役割とか何も関係ないですからね。本当の意味で互いを思い合えることを知った、そういう涙だったらいいなと思いました。本筋とか話の文脈とか一切関係ない話ですが、このシーンはそういうことを感じましたね。

 

 私にとって、カヲルはこれまで特に何か引っかかるキャラクターではありませんでした。唐突に現れてわけの分からないことを話す電波少年ぐらいに思っていて、Qの段階でもそれは変わりませんでした。ぶっちゃけカヲル君の頭が爆発したシーンも、シンジに対する思いはあれどカヲル君に何かを思うことはなかったです。

 でもシンエヴァでシンジとカヲルの間に、何のしがらみもなく友情が芽生えることが分かってからは好きになりました。それって突き詰めると「シンジが好きだからカヲルが好き」という話なのですが、それでいい。それでいいんです。

 

■終わり

 月一エヴァのニュースを見た時は、正直なところ「まあ見に行くか、一応オタクだし」みたいな気持ちでした。子供の頃は何度も見返したエヴァンゲリオンでしたが、社会人になってからはそれもなくなり、2021年にシンエヴァを見に行くにあたっても特に見返すことなく映画館に行きました。

 だから今回も半ばオタクとしての義務感みたいなものが原動力で、そんなに好きかと言われたら今はそこまで……だったのですが、こうして月一エヴァを完走した今、改めてエヴァンゲリオンという作品が大好きになりました。これも噓から出た実。結局この記事を書きながらQを見返しちゃっています。

 特に序を見てからエヴァ熱が一気に盛り上がりましたね。そのタイミングで漫画版を全巻買ってみたりして。ちなみに漫画版はめちゃくちゃ好きですね。大胆さと繊細さを両立した、アニメ版でも新劇場版でもないシンジが楽しめます。特に心理描写の繊細さが好きで、最終兵器彼女とかが好きな人は刺さると思います。

 しかし、まさか今になって「エヴァンゲリオンが終わった」という虚無感に包まれるとは思いもしませんでしたね。初めてシンエヴァを見た時でもこんな風には思わなかったのに。この寂しさは何で埋めたらいいんでしょうか。